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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 冬蛾 連載中

冬{とうが}蛾

                    

                  1
「辞めるって本気かね」
 小寺公子が部屋に入るとすぐ、医学書から目を離し目元を両の手で押さえながら、多村医長は言った。
「はい」公子は身を堅くして答えた。指先が微かに震えていた。
「本当に遣れるのかね」
 歳の割りには老けて見える、多村の優しい目線が公子を捉えていた。
「はい」
 公子は多村の目線から逃れるように、じっと床を見つめていた。ここ迄来たからには翻意は出来ないのだと自分に言聞かせていた。
 この件については、多村に一番に相談したかった。看護婦としては、直接の上司である川島婦長に辞職の理由とこれからの進路を口頭で陳べたのだった。川島より、多村に伝えられたもののようであった。それは、多村のオペの時には公子が何時も就くという理由からではなかった。公子の気持ちを変えることが出来るのは、公子が尊敬する多村でなくては出来ないという川島の計算があったのだった。         
「川島婦長も大層心配しておられる。私も心配だ。ホームヘルパーとして本当に遣れる自信はあるのかね」
 眼鏡の奥の穏やかな眼が、公子の行動を案じていた。それを、公子は全身で感じると、心が大きく揺れるのだ。その気持ちを押さえるように、
「遣れるかどうか解りません。私としては、とにかく一生懸命に・・・」公子の声は胸の高鳴で震えていた。
 公子は多村の顔を正視できずに、瞳を自分の白いパンプスに落としていた。何度も何度も洗濯機の中を潜り、布はその緊張を失い、弛緩していた。多村を兄のように慕い、人間として尊敬して止まなかったのに、その人の許を自らが去ろうとしている。それは、仄かに生れ様としている恋慕を断ち切る行為もあったが、どうしても納得いかない多村のクランケに対する処置への抗議も入っていた。  
「きみを留める事が出来ないのが残念だ」
 多村はそう言って、銀縁の眼鏡を外し胸からハンカチを取り出して拭いた。その行為は困ると行なう癖であった。彼は椅子から立って大きな硝子窓に近寄り外を見た。男性にしては細い肩だった。その肩が淋しそうに見えた。    
 公子はゆっくりと目線を上げてそれを見た。この体力的にもタフだとは思えない多村に、オペの時には長時間の集中力が潜んでいるのだと言うことを公子は知っていた。多村の許で色々と勉強したいという気持ちは失せてはいないのだった。だが、どうしてと言う疑問が彼女に生れていた。
「そうか・・・。遣り給え、若いんだから精一杯に・・・。でも、四、五階のクランケはさぞっかりするだろうな」
 振り向いた多村が頬を少し緩めて言った。
「いいえ、すぐに忘れます。それにこの病院には多くのナースが・・・。そして、これからも新しい人達が入ってきます」
 公子の心は動揺していた。それは、これから未知の世界に入ろうとする不安感でもあった。
「そうだ、その通りだ。だが、小寺公子というナースはいないということになる」
「それは・・・。ここのお年寄りの方はまだ病院のベツドがあり、ドクターと身の回りの世話をするナースがいるから幸せです。病院に入れず、独りぽっちで寝たきりで・・・、その人達のことを思うと・・・」
 公子は、夕暮になって縁側まで這い出て、声にならない声で「赤とんぼ」を唄っていた年寄を思い出していた。庭の隅には赤く熟れた柿が夕日に照らされて寄り紅く染まっていた。縁にはマッチの棒が十本単位で纏められ、幾つも作られていた。
「このマッチの山が十になると倅夫婦が帰って来て、飯を食べさせてくれます」
 その辿々しい言葉に公子は泣いたのだった。
「小寺くん、ここでの生活が本当に幸せだといえるのだろうか・・・」
「それは・・・ですが、ここの人達より困っている人達が多いいという事を忘れてはいけないと思うのです・・・私は。・・・」
「その通りだ。准看として三年、そして、正看として二年、小寺くんがこの病院で、特に老人医療を見聞し、看護して、その事に気づいた。そして、野にある老人の問題に関心を持った、どうにかしてあげたいという人間としての慈愛が生れた。・・・この病院も小寺君のような限りなく同胞を愛しいと言うナースが沢山育てば老人福祉も自ずと解消するだろうが・・・。医療というのはドクターとナースの連携プレーでなくてはならないし、また、対等にクランケに対して意見の交換がなされなくてはならないのだということを感じるのだ。この旧態依然の慣習を打ち破るのが君だと考えていたのだが・・・」
 多村は静かに独り言のように呟いた。その声は、増築工事の騒音に消され、途切れと切れに公子に届いた。  
「やってみたまえ・・・。私のオペの時に何時も君が居てくれて、てきぱきとした行動で助けてくれたこと、忘れんよ」
「先生」公子は小さく心の中で叫んだ。あの白い額の汗を何度拭いただろうか。多村だったから安心してオペ室に入れたのだという事を思い出していた。
「行ってこい。白衣の天使の君なら出来る。人間を愛しいと言う君だから出来る。・・・白衣を着ているが天使ではないナースが多くなった・・・」
 多村は終わりの言葉を床に落とした。
 公子は双眸から涙が溢れていた。
「なかなかきついぞ。困ったことがあったら何時でも相談にきてほしい。私に出来ることがあったら手伝わしてもらうよ」
 感傷で人が救えるか、同情でその人が喜ぶか、優しさで人が振り向くか、そう言って叱って欲しいと公子は思った。
「有難う御座いました」
 公子は堪えられなくなって部屋を出た。ドアを背にした時、一度に今まで堪えに堪えていた涙が堰を切ったように迸しった。これでいいのだ。これでと公子は自分に言聞かせていた。

                   2
 独り暮らしの老人、寝たきりのお年寄り、それを抱えている家族、そして、重度心身障害児の家庭は、公子が病院で想像していたより意外と少なかった。
 家族からの申請と、民生委員、ケースワーカー等により発掘される数はあまりにも少なかった。申請があり、発掘されても、厳しい審査の前で篩に掛けられているのが現状であった。審査が通れば、ホームヘルパーの派遣となるのだ。ホームヘルパーを必要としている人達は多いいに違いない。審査ミスもかなりあるのではないだろうか。法とか条令の前に締め出されているのではないのだろうか。公子の心に疑問が生れた。  
 小寺公子はK市の福祉課に嘱託という身分で採用された。二ヵ月間の講習と施設実習を済ませて、初めて一人前のヘルパーとして宅訪に出ることになる。厚生省の基準では六名から九名を担当し、週二回の宅訪スケジュールが義務づけられている。土曜、日曜日は休みであった。嘱託という不安定な身分と、賃金の安さには驚いたが、それは、最初から覚悟して飛び込んだ世界であった。

 病院にいた頃公子は、勤めが済むと、家に一直線で帰っていた。同僚のように、ディスコにカラオケにと張り詰めていた精神の緩和を目的に出掛ける気分にはなれなかった。弟の食事を作り、一緒にテレビを観、自分の時間は読書に充てていた。詩の同人誌に参加し、今迄に何編か発表していた。
 仲間の一人に大竹数馬と言う三十歳前の人がいて、公子はその人に原稿を見て貰うことが多かった。かれはどこか多村に似たところがあった。まるで正反対のような容貌であったが、包み込んでくるおおらかさが類似しているのであった。
「小寺くん、君は何を拠り所にして生きているんだ」
 大竹に原稿を見て貰っている時に、突然言われた。
「そんな難しいことは解りません。ただ・・・」
 公子は返答に困ったのだった。
「君の詩は、美しいものを美しいと見るその感性で止まっている。君は素直で潔癖な人なのだろう。だが、その奥に、向こうにあるものが足らない」
「それは・・・」
「哲学だ、自分はこう生きる、世の中はこうでなくてはならん。人間を愛しいと言う気持ちは出すぎるくらいに出ているが・・・。その裏づけと言うか、真実というかが乏しいように思う」
 そう言われても、二十二歳の公子には大竹が言おうとしていることが理解出来なかった。大竹に応えるためにも、そして、その事を理解することが、クランケに対してよりよい看護に繋がるならばと公子は読書に没頭していた。
「僕の近所に赤とんぼを唄うお婆さんがいてね、一回唄うとマッチ棒を一本置くんだよ。その姿を君に是非見て貰いたい」
 大竹に言われて、公子は休日にそこを尋ねたのだった。
 その時から、公子は変わったのだった。
「目的は違うけれど、詩僧大愚良寛が修業の暇に子供達と手鞠をつき歌を唄ったって言う逸話があるんだよ。作る、創ろうと思うから、詩が堅いんだ。語るんだ、君の心を一辺の詩に託して語るんだよ。そうすれば詩に遊びとゆとりが生れる。良寛の詩には無理が一つもないんだ」
 良寛を語る大竹の瞳は輝いていた。

 公子が宅訪に出て驚いたことは、一人暮らしの老人にとって老人ホームは不幸な人のく所と言う頑迷な程の意識が強く、入所を勧める保健婦やケースワーカーの言葉を頭から否定していた。老人にとって否定しなければならない要因は、金銭的なこともあったが、今迄生きてきた場所を移ることの淋しさの方が大きく強いようだった。
 寝たきりのお年寄りを抱えている家族は、市の認可病院のベツド空きを待っていたが、年寄は入院を望んではいなかった。家族の者もどうせなら本人も望んでいることだし、出来るかぎりやってと言う思いと、諦めが強かった。だが、家族の特くに面倒を看る主婦は疲れ切っていた。
「一人暮らしの方が呑気でええ」
「病院は退屈じゃから嫌じゃ」と呟く老人の言葉をどのように受けとめればいいか迷ったが、ヘルパーとして宅訪して行く中で多少なりとも理解することが出来たのだった。重度心身障害児を持つ家庭は、世間体を気にして内緒にしてくれという申し出をすることが多かった。施設に入所させ適切な治療と、リハビリーをすればよくなると勧めても、親の方で否定した。世間という冷たい風に曝されてきた親の、我が子に対する間違った愛情を感じても、公子の力ではどうしょうもなかった。
 自分で身の回りの世話の出来る老人には、福祉課とホットラインが通じ、一日一回様子を尋ねる電話が掛けられた。
 寝たきり年寄へのヘルプは楽ではなかった。家族は年寄の看病と生活に追われ疲れきり、年寄は、部屋に閉じ込められ放り出されているのが現状だった。
 病院では夜間に歩き回り、喚き散らかすクランケに対して、鎮静剤、と睡眠薬が投注されるが、家庭では二十四時間の看病なのだ。閉じ込め放り出したくなるのは解らないではなかった。そんな年寄を見るとずっと側に居て介護をしてあげたいと、公子は思うのだがそれは叶わぬ事だった。
 いま、適切な治療とリハビリーをすれば寝た切りから回復できるのにと思う年寄も多かった。
 時折、老妻を車椅子に乗せ、押している老夫を見かけることがあるが、公子は心が和み、あんな老夫婦になりたいと思うのだった。
「公子さん驚いたでしょう」
ヘルパーの先輩の山本里子が、宅訪を終え着替えていると声を掛けた。里子は三十歳を少し過ぎていたが、年令より若く見えた。どこか身のこなしが違っていた。色白で美しい目鼻立ちをしていた。
「はい。もう驚くことばかりで何をどのようにしていいのか解りません」
 公子と里子はどうしてか気が合った。二人以外は四十歳を過ぎた人が多かったから、年令の近さが引き合ったのかも知れなかった。
「お年寄りの目を見てどう思った」
「はい。生きることを忘れているような・・・。それには吃驚しています」
「そうよね。もっと輝いた目の色を見せてくれれば、ヘルプのしがいもあるのだけれど。洋服の上から痒いところを掻いている様で、歯痒いったらないわよね」
「そうです、でも、喜んでくれると思うと・・・。やりがいがあります」
「生きているんだって事を教えてあげなくてはね」
「はい」
「だけど、お年寄りだと思って甘く見ては駄目よ。男の部分は残っているんだから」
「ええ」公子は解らないと問い返した。
「そのうち解るわよ」
 里子は少し斜視した眼を細目ながら言った。
「狡いですよ、教えてください」
「男を知らないあなたには無理なことよ」
「ええ、そんな事ってあるんですか」
「おおありょ、気をつけなさいよ。男も女も灰になるまでなんとかって言うでしょう」「御忠告ありがとう御座居ます。肝に命じておきます」
 公子は戯けて言った。
「それにしても、ご近所の方の協力が欲しいわよね。愚痴になるけど、昔あった人情のようなものがあったらって思うわ」
「そう思います。ご近所の方の小さな親切がどれほど・・・」
「言わない、言わない。愚痴を一つ落とす度に、愛が一つ付いて落ちるんだって、私なんか落とす愛がないけれど・・・」
 里子はそう言ってバックより煙草を取り出して火を点けた。
 一人暮らしの老人の家と、隣家に万一の時に備えて有線ベルが設置された時も、最初の頃は快く応じてくれ、ヘルパーが宅訪できない時には様子を連絡してくれていたのだが、ベルに対して拒否反応を示し始めた。
「私達ばかりが犠牲になることはない。福祉は国が、自治体がするものよ」というのがその人達の言い分であった。隣家にだけ負担をかけるのも問題があり、嫌々されたのでは老人にとって病状の悪化に繋がる恐れがある。と言うこともあり、老人の家の前に老人が中でボタンを押せば赤いランプが点きベルが鳴るという苦肉の策が生れた。そのランプの下には、設置の意味が書かれてあった。それならば隣家にだけ迷惑を掛けることにはならない、負担を感じさせることにはならない。乏しい予算と人員で少しでも多くの老人達を見守り、細やかではあるが安心して暮らしてもらおうという試みがなされた。
「お医者さまは科学的な治療のみに専念する。それ以外のことは私達が総てしなくてはならないのよ。もっと、老人専門医を増やしてほしい。それに、移動リハビリーテーションを作って貰いたいわ。そうすれば寝たきりになる老人の方も少なくなるだろうに」
 里子は真剣な眼差しを公子に向けて言った。公子も同じ考えであった。確かに老人に対しての治療は画一的であった。薬と注射、等閑な力づけの言葉、その医師の態度から本当に老人の回復を願っているのだろうかと思うことも多かった。
「お医者さまが、私達や、家族の方に適切な介護のアドバイスをしてくれればやり安いのにね」
「はい、そう思います」
「でもあなたはいいわ、看護師として色々と専門の勉強をしているのだから。これからは公子さんのような人が必要なのよ」
「いいえ・・・私なんか・・・」
 老人達を見つめていて、大正、昭和と日本の激動期を背負い生きてきた人達の老後がこれでいいのだろうかと思うのだった。
「病院ではドクターの指示で何事も始まりますが、ここでは、私達が考え最善と思う事をするって事に戸惑いがありますが、それだけにやりがいがあるとも言えます」
「まだまだ、殆どの人がボランティアの精神で動いているのよ。それで自己満足をしている。それで良いのかなって思う。それを利用しているのよね、国は・・・」
「私思うんです。老人の方が何を望んでおられるか、暖かい愛の手なのだろうか。そんなものじゃあなく別の物を欲しがっているのじゃあないかって・・・」
「例えば・・・」
「今は解りませんが・・・。別の何かに・・・何だか苛立っているように見受けられるんです」
「理解、信頼、情熱、そして、人間として平等・・・。生きて来た過去がみんな違うけれどそれを知っていて、老人の人生を知り話し相手になる。そうすれば距離も近くなるし、打ち解けられる・・・」

                   3
 公子はヘルプに行く途中、元気な年寄りに合うと心が晴れ晴れとした。何時までも元気でいてくださいと心の中で叫び、自転車を踏むペダルが軽くなった。それらの年寄りは土木作業員であったり、田地を這ったり、ビルの清掃に従事をしていた。その年寄りに拍手を送っていた。自転車を止めて暫らく見惚れることも多かった。額に汗を流しながらも楽しそうに働く姿に美しい感動が公子のなかに溢れるのだった。この年寄りにも家庭があり、子供がおり、孫がいて、父であり母なのだ。生きているために働いている。作るという作業を通してこの社会に参加している。生きている事が誰かの役に立っている。ーお爺ちゃん、お婆ちゃん確り頑張って。どうにもならなくなったら私が助けますー
 そんな日は、元気が出てヘルプも捗るのだった。
 公子の母も、同じように汚れ汗して働いていた。年寄りの働く姿に母の面影を投影して懐かしんでいるのかもしれなかった。
 母は仕事の最中に倒れ、看病の為に看護師の道へ進んだのだった。それは、母に元気になってほしい、正しい看護がしたいという自己愛であった。そのために、好きだった文学の道を諦めようとしたのだった。
「好きなことをやればええ。人間の一生なんてたかが知れておる。心に素直に生きることじゃ。それが即ち、他人を幸せにしているのかもしれん」
 公子の母が遺していった言葉であった。
 公子の母は、中風の後遺症で半身不随になり、公害喘息を併発して死んだのだった。母は病院に入ろうとはしなかった。夫を早く亡くして、女手一つで公子と弟の政彦を育て、疲れ切っていたのかもしれないし、公子が一人前の看護婦になり、政彦が学校を出たということで、親としての役目が終わったという安堵感が、早く父の許に行かせたのかもしれなかった。その事を考えると、公子は後悔ばかりが募った。母に対して手の施しようはなかったか。その事は今でも公子の心の中に燻り続けている悲しい思いだった。その事が、公子を今の仕事に向けさせた大きな要因でもあった。
「石に布団は着せられもせず」と、公子は良く一人語を言うのだった。
 そんな考えは、年寄りを疎かにしている家族に、母であり父である人に真心で接してほしいという要求が生れる。そうでないと後で自分を責め泣かなくてはならなくなるのだからと。だが、公子はそれを口に出すことが出来ない。お助け人にそのような事を言う権利はないからだった。

 公子は二ヵ月の研修を終えて、宅訪に出たときの事を思い出していた。
 里子の後を引き継ぐことになり、里子に伴われての宅訪が最初のヘルパーとしての仕事だった。その日は、梅雨の晴れ間を太陽は容赦なく照らしていた。前を行く里子の背が汗で濡れて、紺の制服を黒く滲ませていた。白い襟足に汗がキラキラと光っていた。
「この仕事は足腰強くなるわよ」と、里子が振り返らずに声を掛けた。
「はい。可愛い鼻の頭にも汗が吹き出ています。額に、頬にかぜが心地よいわ」
 公子は後でしっかりとペダルを踏みながら、息の間い間にそう応えた。暑さの精もあったが、里子の自転車のスピードは高速のギヤが付いているのではないかと思われるほど早かった。
「さあ、頑張って、あなたの弛んだ肉が二ヵ月もすると別人のように引き締まるから・・・」
「あのー、私はデフでおかめですかー」
「今はね、だけど、あまり痩せていては女として魅力がなくなるわよ。多少太り気味の方が男は喜ぶから」
「あのー、それは体験から言っているのですかー」
「そうよ、男の事で解らないことがあったら何でも言って・・・」
「はい。その節は・・・」
「と言っても、あなたの方が上かもしれないわね」
「え、よく聞こえません」
「このカマトトめ・・・」
 前方の山の中腹に小綺麗な住宅団地が見えていた。それは周囲の緑の中にぽっかりと浮かんでいる様に見えた。蛇行したアスファルトの道を自転車を押しながら上がった。新芽が自由に枝葉を空間に向けて伸ばしていた。
 四階建てのビルが十数棟あった。団地の中は以外と森閑としていた。子供の泣き声とか犬、猫の泣き声もなかった。どのベランダも布団や洗濯物が所狭しと干してあり、それは壮観でさえあった。内海の遠浅を埋め立てて造った石油コンビーナートの中の社員住宅だった。
「御免ください」と、玄間戸を開けて里子は大きな声で言った。公子は里子の後にぴったりと付いていた。微かに尿の匂いが漂ってきた。その匂いは、寝たきりのお年寄りの家庭に、それも襁褓をしているお年寄りの尿の匂いが家にしみ込んだ物だった。家族の人はその匂いになれているが、外部の人には心地よい匂いではなかろうと公子は思った。公子は母の襁褓を替えるときに嗅ぎ、まだ家にしみ込んでいて、母を忍ぶ縁になっていた。「いつもすいません」 
 里子と公子を迎えたのは、三十を半ば過ぎていると思われる、小柄で痩せた女性だった。
「いいえ、お婆ちゃんはどうです」と、里子は月並みな言葉を返した。そして、
「この方が、今度入った小寺公子さん。次から私の代わりに伺う事になりますので宜しくね」と紹介した。
「小寺公子です。何も知らない者ですが、どうか仕事をさせてください、よろしくお願いいたします」と、公子は深々と頭を下げた。
「川頭昭子です。こちらこそ宜しく・・・。我儘な義母ですが見守ってください」と、腰を折り、
「どうぞ上がってください。案内いたしますから」と、義母の部屋に導いたのだった。
 里子からの書面での引き継ぎは終えていた。川頭キヨ、六十七歳、脳溢血の後遺症で半身不随となる。予後の経過は芳しくない。リハビリーの必要を感じても家族の同意が得られず、それに、キヨも苦痛を訴えて効果が現われず。投薬としてコレステロールの数値を年令に相当した数に減らすべく与えている。血圧は山間にて塩分を多量に食していた処から個人的に高いが、十分に注意を要するものとす。
 介護として、主婦昭子の疲れを考え、キヨの洗濯物、部屋の掃除、身の回りの世話をすること。簡単に医師の所見と先任のヘルパーのヘルプの状況が記されていた。
 キヨには、南向きの陽当たりの良い部屋が宛がわれていた。息子夫婦の思いやりが伺われるようだった。キヨは大切にされているのだと公子は思った。布団は部屋の中央に敷かれ、その周囲は整理整頓がなされていた。
 キヨは天井を向いて寝ていた。襁褓が布団の裾の辺りに折り畳んでおかれ、洗濯物が枕元に積み重ねられてあった。
「今日は、おばぁちゃん今日はどうです」
 と里子が優しく声を掛けた。キヨは眼だけを里子に向けて頬を歪めたようだった。
「そう、変わりはないのね。それは良かったわ。あのね、おばぁちゃん、こんどね、この人、公子さんというのですけれど、私の変わりに来ることになったの、仲良くして上げてね」
 キヨは、里子の口の動きをじっと見ていた。
「公子です、仕事をさせてね、宜しくお願いします」
 公子はキヨに満面の笑みを浮かべて言った。キヨは公子の方に目を向けたが、直ぐに里子に眼を移して、その目を布団の裾へとやった。
「そう、出るのね。直ぐしますから」
 里子は馴れた手つきで布団の裾を捲り、キヨのお尻を起こし、おまるを宛がった。そして、布団を許のように直した。暫らく時間は止まったようであった。
「出ないの、出るように思ったのね。いいのよ・・・」
 里子はにこにこと笑いながら、優しく語る様に言った。
 公子も病院で年寄の尿を取った事があった。年寄にしても他人に排泄物を取ってもらうことは辛いことに違いないのだ。それより、ベツドを汚すことの方がより辛いのだ。看護婦はその後始末のためにおうあらはであった。中には叱りつける者いて、早め早めに尿をもよおしたとベルを押すようになるのだ。キヨも昼間は襁褓を外して昭子に取ってもらっているのだろう。
 部屋の温度、食物に水分が多かったか、排尿排便は平均どれだけか。嬰児の様な気配りがなくてはならないと公子は思うのだ。特にコレステロールの数値の高い人は水分を欲しがるのだ。あれこれと公子は考えにとらわれていた。

「おばあちゃん、公子さんはね、看護師をしていたの。病院で沢山のお年寄りの方の手や足を揉んだんですって、少し手と足を動かせて見てもらいましょうね」
 キヨは里子の言う事には素直であった。
 公子の後で昭子が里子の仕草をじっと見つめていた。公子は、里子がこうするああするという行為を見せているなと思った。ヘルパーにとって、老人介護の助言は出来ないのだ。相談されれば別だが。だから、行為を通してその方法を掴んでもらうしかないのだった。
 公子はキヨの右側に座り、腕を取り柔らかく上下をしながら、右の硬直した筋肉をほくそうとしてみた。力を入れなければびくともしないのだった。キヨは苦痛の為に頬を歪めて、意味の不明な声をあげた。そして、救いを求めるように里子を見つめた。
「おばあちゃん、少し我慢をしてね。はい、ここで指先に力を入れて、そう時々でいいの何か思い出した時でいいから、指先に力を入れるという事はいい事なのよ」
 公子は額に汗が吹き出した。足の屈伸を始めると手の時より痛がった。公子は擦りながら伸ばし、折りながら撫でた。キヨは動物のような叫びをあげあばれはじめた。
「痛いでしょうけど我慢してね。今まで使ってなかったから筋肉が固まってしまっているのよ。今なら・・・。今からでも遅くないから、少しずつ動かしてみましょうね」
 キヨは公子を恐いものでも見るような怯えた目線を向けていた。
「もう、今日はこれくらいでいいでしょう。一度に沢山すると疲れるから。お婆ちゃん、公子さんはお婆ちゃんのことを思えばこそしたことなのよ。解ってあげてね」
 里子はそう言いながらキヨの頭髪に櫛を入れていた。キヨの里子を見上げている表情は安らいだものが浮かんでいた。里子とキヨの間には信頼感が生まれている様だった。
 キヨと公子の母の症状は余りにも酷似していた。公子は、今から思えば母が少々痛がってもリハビリーを施せばよかったという後悔があった。むしろ、大事をとって母が動こうとするのを、次の発作を恐れて止めたのだった。そのことが公子の頭にあり、キヨに対して懸命に物療を施したのだった。
ー余りにも激し過ぎだろうか、でも痛がっても動かしていないとこのまま寝たきりになってしまう。時間を掛ければ手も足も動くようにあり、ひとりで自分のことが出来るようになるかもしれない。そうなればキヨさんにとって幸せな事に違いがない。キヨに手も足も動くのだということを教えなくてはならない。自分の力で、そして、昭子の介護で・・・。そう思うから・・・ー
 公子は自分の行為に言い訳をしていた。
 キヨは公子に鋭い憎しみに満ちた目を張り付けていた。
 昭子はその二人の姿を心配そうに眺めていた。
 坂道を自転車を押しながら、
「里子さん、私がした事が間違っていたでしょうか」と公子は元気なく声を掛けた。
「いいえ・・・、でも、何事も急ぎすぎると、いいことも悪くなるって事があるわ。ゆっくりとやりましょう」
「でも、早い方がいいと思って・・・」
「それは、だけど・・・。公子さんの気持ちは良くわかるの。ほっとけないと言うその思いは・・・。だけど、焦っては駄目。仲良になることが一番だわよ。安心させること、そうでないと、次の日、なんにもしなくていいと言われたらどうするの。今日の事は全く無駄になるのよ・・・。少しずつ積み重ねないと倒れるし、一方的な愛だけではヘルプは勤まらないわよ。協力しあわないと前に進まないから」
「そうでしょうね、緊張して忘れていました」
「昭子さんは、お婆ちゃんの面倒もよく見られ、ご近所でも親思いの感心な嫁と評判もいいけど、これだけ一生懸命に面倒を見ているのだからという思いが、お婆ちゃんにとって大きな負担になっているのよ。一方的な愛だけでは駄目、世間体や、自己満足で年寄の看病なんかできない。ヘルプの最初にキヨさんを選び、交替しょうというのも、それを知って欲しいからなの。年寄の心の中に負を持たしては絶対にいけないのよ。心を開き、信頼しあい、仲良くなって・・・。そして、突放す、叱る勇気も必要なのよ。・・・だんだんと解っていくわ」
 里子は、少し得意になって言葉を放った。
「それでは、どうして、昭子さんに言ってあげないのですか」
 公子は里子の括れたウェストの辺りを見ながら問った。
「どうしてって、私達はヘルパー、保健婦でもケースワーカーでもないのよ。家底の事までとやかく言うことは出来ないのよ、相談されれば別だけど・・・」
「職分が違うって事ですね」
 公子は目を道縁の竹藪の中にやった。そこには、小さなタンポポが弱々しく咲いていた。こんな日陰にと思うと公子は何だか勇気が湧いてきた。
「キヨさん、きっと、手と足が動き、歩けるようになると思うんです。そうすれば、頭だって・・・」
「それは、でも駄目のようね」
「とうしてですか」
「あの部屋を見たでしょう」
「綺麗でした。まるで病室のようでした。・・・でも・・・」
「そう、潤いとか安らぎとかと言う無駄がなかったでしょう」
 里子は早口で言って先を急いだ。次が待っている。何時までもキヨの事ばかりにかかずらわっては居られないと言う風に。
 公子はキヨの事を思い出し考えようとしていた。
「公子さんは、年寄に取ってなにが一番大切だと思う」
 里子は自転車を止め、振り返って言った。
「それは優しさでしょうか」
 考えなしに公子の口から咄嗟に出た言葉であった。
「優しさとか思いやりではどうにもならなくなるのよ。優しさや思いやりを決して気取られては駄目なの。年寄はとても敏感だから心を読まれるわよ。・・・キヨさん、どうして駄目だか解る」
「いいえ解りません」
「さっき、病室のようだと言ったわね。その通り、キヨさんの思い出が綺麗に片づけられているのよ」
「思い出・・・」
「そう、キヨさんが生きて使ってきた一つ一つの物。他人から見ればただのがらくたに見えるかもしれないけれど、それはキヨさんにとっては宝物かもしれない。その思い出に繋がるものと出会い触れ合うことで記憶を繋げておく事が出来るのよ」
「そうなんですね。人に歴史あり、物に出会い有りって言いますもの。例えば、病院では見舞い客の多いい患者さんほど回復力が早いという事が良く言われるのと同じなんですか」
「そうよ、物とのふれあいで過去の記憶を呼び起こし、その頃のことが思い出され、自分の人生の色々の事が後悔になって襲うわ。楽しかった人生を懐かしむわ。・・・どっち等でもいい、思い出してこれからの人生の糧にしてくれればそれだけでも頭はボケないわ」「その宝物は・・・」
「焼いたらしい、此方に来る時に・・・」
「ではキヨさんは・・・」
「だから、私達が思い出を運んであげないといけないのよ。作ってあげなくてはならないのよ。・・・公子さんが今日、手や足を揉んだでしょう、痛がって睨んだでしょう。今度ヘルプに行く時にはやりにくいわよ。少しの間見向きもされないかもしれないわよ。敵だと思ってる。・・・でも、キヨさんは花が好きなの、行く時に持って言ってあげて」
「それは困ったわ」公子は足元へ言葉を落とした。
「考えない、考えない。キヨさん一人ではないのよ」
「私の最初の・・・一生懸命に・・・。きっと歩かせて見せます」
「そうよね、そのファイトが・・・でも焦っては駄目よ。肩の力を抜いて・・・。疲れ過ぎない事よ」
「はい」     
 抜けるような青空に少しずつ雨雲が垂れ込めてきていた。それは公子の前途に広がる壁なのだろうかと思った。
 里子は細い路地を入って、自転車を止めた。裏木戸を開けてつかつかと、木立の生い茂る庭を横切り、公子が付いて来ているか確かめる様に立ち止まり、確認して尚も入っていった。庭に面した部屋に老人が布団の上に上半身を起こして、二人の来るのを待っていた。硝子戸の向こうで笑って迎えてくれた。
 安田功吉、八十二歳、元教員、独り暮らし、転んで足を痛め歩行困難になるも本人の努力により身の回りの世話は一応出来るまで回復。
 ヘルプとして、洗濯掃除、周に一回程度介護して入浴、時間があれば食事も作る。
「おじいちゃん、どうです。お変わりありませんか」
 里子が、濡れ縁から上がり、硝子戸を引いて、声を掛けた。
「はーい、いいようです」
 イガグリ頭が少し伸びていて、真っ白であった。
 安田は里子の影に隠れているようにしている公子の方に目線を投げた。穏やかな瞳の色であった。胸元が乱れることなくきちんと着物を着ていた。
「おじいちゃん、今度ねえ、私の代わりに伺うことになった小寺公子さん、虐めないでね。言うことをちゃんと聞いてね」
「はーい」安田はにこにこと笑っていた。
「小寺公子です。宜敷くお願いいたします」
「公子さんですか、安田です」と、安田は丁寧に頭を下げた。
 アルバムとか、新聞の切りぬき、名所の土産物、マッチ箱、書籍、カセット、テレビが、枕元には電話が置かれ、手の届く範囲には色々なものが雑然と置かれていた。それは散かしているという言い方の方が当を得ているかもしれなかった。
「おじいちゃん、今日は引継ぎでそんなに時間がないの。わたしは、洗濯をしますから、公子さんとお話でもしていてね」
 里子はそう言って奥へ姿を消した。
「なにかすることはありませんか」
 公子は安田の側に座って聞いた。そして、散らばっているものを片ずけ様とした。
「ああ、そのまま、そのまま。人様には散らかっているように見えましょうが、私には整然と整理されているのです。明かりがなくても、手を伸ばせばそこに何があるかということが解るんですよ」
 安田は穏やかに言った。そして、目を公子の全身に這わし始めた。それは、男性の女性を見る目であった。公子は身体を小さくしていた。衣服を通してすっかり中まで見通されている感覚になり、羞恥心が生まれた。それは、病院でクランケの瞳に晒される物とは多少違っていた。
「なにか・・・本当になにか・・・することはありませんか。なかったら、里子さんを手伝いに行きます」
 居たたまれなくなってそう言った。
「ここにいてください。・・・今、私はあなたを見て連れ合いのことを思い出そうとしているのです。・・・思い出せません、忘れてしまったのでしょうか・・・。確か、あなたの横顔がそっくりであったような・・・。目の大きい、鼻が真丸で、八重歯があって、頬骨が張っていて、少し色黒で、八切れんばかりの太股をしていて、オツパイが大きく、髪を長く背に垂らしていて・・・。もう遠い日の事で忘れてしまったのかも知れません」
 納納と安田は、公子を見て言った。
 日常的なことはすぐ忘れてしまう。古い話は比較的はっきりと覚えているというのが痴呆の症状なのだが・・・安田夫人との思い出は、一片の物を通してしか記憶を呼び覚ますしかないのだろうか。物にまつわる断片の記憶しかもう残されてないというのだろうか。安田は少しずつ痴呆症へと向かっているのだろうか。
「一年前までは覚えていました。一年早く公子さんが来てくださっていたら、婆さんの事をこんなに忘れんでも済んだかも知れません。今では、写真を見ても何処の誰だか解らん時もあります。婆さんと暮らし、泣き笑いした人生を・・・」
 安田は淋しそうな目をして言った。公子はこのような時にどのようにしていいか解らなかった。
「これから、私が来ますから、その内きっと思い出しますわ。私が、お婆ちゃんに似ているのなら・・・」
「そうですね・・・。公子さんと言ったかな、庭に檜がありましょうが、日陰で余り大きくなってない。あれは、私の息子の記念樹でしてな・・・生まれた時に・・・。大きゅなって外国に行ってしもうた。私にも来いと言うて呉れたが、世話を掛けとうないから止めた。・・・それに、この家には色々な思い出が残っとる。ここを去ることは、私の生きてきた歴史をも失うように思えてな」
 公子には、安田の言う事が良く解った。


                   4

「キヨお婆ちゃん、その後どう、上手く行っている」
 公子が身仕度をしていると、里子が帰ってきて言った。
「あら、お帰りなさい。遅かったんですね。・・・キヨさんには・・・。今まで、机に頬杖をして、里子さんに連れて行って貰った時の事を思い出していたんです」
「焦っちゃ駄目。ゆっくりと気長にやるしかないわよ」
「はい。そうは思うんですけれど・・・」
「性格よね。私の若い頃に似ている」
 と、里子は笑った。だが、その笑いが妙に引っ掛かるものだった。
「さあ、仕事の事は忘れて・・・。子供がお腹を空かしてピイピイと泣いてるわ」
 里子は急いで着替えを済まして帰って行った。
 公子が多くの老人達に接して驚いたことは、死を迎える心の準備を済ませていることだった。公子は死の準備をさせたのは一体誰なのか、と大きな声で叫びたい心境になるのだった。
「お迎えが来るまで、生きとらにゃいけませんかの」


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